昭和44年9月29日 朝の御理解★


 御理解第99節『無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学者(学問)が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる』


 『無学で人が助けられぬということはない』とこう。これはもう、お取次ぎをさせて頂く人に対してでございましょうね。
 三代金光様の時代に、ある、まあほんとに、無学に近い方が、学院を出られまして、いよいよこれから学院を卒業して、布教に出らせて頂かなければなりませんが。「私は、無学者でございますが、私のような者で人は助かるでしょうか」というふうなことをお伺いした時に、『親切さえあれば、人は助かります』と仰った。『親切さえあれば、人は助かります』と。ね。
 お話が、なるほど、『此の方の道は話を聞いて助かる道』と仰るのですから、やはり、話をしてあげなければならん。ね。けれども、その話というのは、たいへん難しいことを言わなくても、自分がおかげを受けてきた事を話せばいいのだから。こういう問題にはこういう話。こういう難儀な問題には、こういう御教えがありますぞと言うて、決まっておるということではない。
 先日のある先生がお参りしてみえた時に、話したことです。私なんかもまあ言うなら、その、無学の者と同じこと。小学校だけしか出てないのですから。ね。ですから、気の利いたことも言いきらんし、難しいことを質問されても、それに、んなら理路整然と説明をしてあげることもできない。
 難しい言葉使いなされると、その事の意味が分からない。この頃神様から、漢文のようなことでお知らせを頂いたり、英語のようなことでお知らせを頂いたり。ね。または、これは仏教を稽古、研究するのに必要であろうと言われる、その(べんご?)のようなもので、その、お知らせ下さるのですけれども、こっちは皆目分からない。そんなこともあるんです。ね。
 けれどもやはり、人は助かっておる。ね。ですから、こういう難儀な問題をお取次ぎ願われた時に、こうお取次ぎしなければならん、ということはない。問題は「親切心」があれば、人は助かると仰ることを考えさして、分からしてもらう。ね。
 例えば、体が悪いという、なら人に対しては、こういう御教えを説かなければならん、ということはない。そこで一番大事な事は、タイミングである。ね。ですから、いつでもどこででも良いお取次ぎができることの為に、私の心がいつも、その親切が使えれる状態でなからなければならない、ということである。言うならば、私がいつも有り難うならせて頂いとかなければならん、ということである。
 私がイライラしておる、私が心が暗うなっておる。自分が自分の難儀に覆われて、心配でたまらんというような状態の時に、どんなに素晴らしい、私のお話をして、その人に差し上げても、なるほど、理屈で話すのですから、その理屈は分かっても、助かりはない。助かるということはもう、理屈じゃないのである。
 その証拠には、んな金光様のご信者の中にでも、先生の中にでも、うわあ、もうほんとに、もう水も漏らさんようなお話をなさる方がある。為には、もうあちらこちらから、お説教を頼まれて、もう席の温まる日はないぐらいに、あちらこちらにお話においでれるという先生がある。
 けれどね、話は素晴らしいけれども助かりはしない。私どものどこも別に、お話をしてくれって頼まれる所もない。また、言われても、体がこんな状態ですから、行かれもしませんけれども。ね。やはり人は助かっておる。ね。いわゆる、『此方の道は無学で人が助けられんということはない』ということが分かる。そこで、私どもに、教祖様のような素晴らしい心の状態というものが、いつも頂けるということはないけれども、そうあらねばならん。そうありたい。といつも願っておる。ね。
 たとえて申しますと。教祖様ということは、私どもは、見識もないし、また、こうして御教えが残っておりますから、御教えを頂いて、まあ、教祖様を彷彿(ほうふつ)とさして頂くだけであって、どんな方であったかも分からんのである。百何十年も前の方ですから。
 けれども、私どもに一番ありありと残ってあるのは、三代金光様。ね。三代金光様が、ね、七十年間に渡って、御神前奉仕をして下さり、私どもの難儀なことを取次ぎ助けて下さる働きをして下さった。まあ言うならば、私どもの取次者としての、一番の手本であり見本である。だから、金光様も、金光様なるわけにはいかん、と言うて言うたら、それまでの話。できん。できんけれどもです、せめて一歩でも近付かせて頂こうとする精進。ね。そういう心の状態を真似だけでもさせて頂きたいという心がけ。ね。
 そういう、私は、この信心というのはですね、そういう、私はね、心がけです。ね。例えば皆さん、( ? )精進がしておられる皆さんの場合でもそうでしょうが。信心のこと何にもまだ分からん。けれども、難儀なことを助けてもらいたいと思う。ね。
 それを、んな例えば、この御理解教典なら教典の、全部を例えば覚えなければおかげを受けられんとか。私の言うこと聞かなければおかげは受けられんとかじゃなくてね、ほんとに、例えばですよ。教祖様の教えておって下さった、その教えにもとづいた生活をさせて頂けれるようになったら、幸せだろうと。為には、ね。一言でも、一か条でも、それを信心に、自分の信心によって体得さして頂いて、ね。そうあらせて頂こうと願う。ね。
 それだけでおかげ頂く。いわゆる、わが心が神に向こうただけでおかげになるのである。わけは分かりませんけれども、あなたのおかげを頂かなければ、とこうあなたの思いに合掌ができる時です、もうそこにおかげを受けられる道は開けられる。開けられたと言うていいのである。
 私どもでもそうで、教祖様のような、ね。または、三代金光様、または、現教主様の場合でも同じことですけれども、のようなことにならなければ、取次ぎ助けることができんということはない。それこそ、無学でも人が助けられんことはないとこう。ね。
 けれども、ここに精進しなければならないことは、いつも親切が分けて上げられる。ここにありますのは、ね。真がなからなければ、人は助からんと仰る。私は「親切とは真」だと思う。ね。
 まあ、真の説明になりますと、また、たいへん範囲が広うなりましょうけれども、まず、私は今日思う。「真とは親切だ」とこう思う。ね。三代金光様が、『親切があれば、人は助かります』と仰った。教祖様はここで『真さえあれば』とこう仰っておられる。ね。
 どんなに学問ができておっても、立派なことが言えても、されても、できておっても、その人に真がなかったら、人は助からん。また自分も助からんですね。ね。
 ですから、その、真がなければ人は助からん。んなら、真とはどういうことかというと、三代金光様は、『親切だ』とこう仰った。親切があればと。だから、親切にはもちろん、ピンからきりまでございましょうけれども、「はあ、私は親切が足りなかった」と。「私は真が欠けておった」と分からしてもろうて、ね。そこんところを、んなら、ほんとの真の道を分からしてもらおう為には、私自身が真の人にならせて頂こう、と意欲する。願う。それでおかげを受ける。
 私ども、いつも親切でありたいと、例えば、思って精進しておっても、親切とは裏腹な「はあ、自分の心の中には、こんな浅ましい心が、こんな事で人が助かるはずがない」ね。けれども、やはり、おかげを頂きたい。ね。そこでお詫びがある。 「私のような者は」と。ね。
 私が、二十年ぐらい前のお話しておるところの中に、お話の中にあります。お取次ぎということは、氏子の世界と神様の世界を取り結ぶ所、ね。取次ぎを願われる。また、取次ぎを、神様のお取次ぎをさしてもらう、氏子のお取次ぎをさしてもらう。言うなら、その架け橋のようなものである。御結界というところは、そんなところなんだ。
 ところが、この御結界そのものは、素晴らしい働きのある、ここは聖場なのだけれども、ここに座っておる私が汚い。為に、この御結界と言う橋がです、もう汚れに汚れ果てております。ね。
 もう、手すりは、もう腐って落ちとるような感じ。その橋の所々に穴が空いてるような、もう危険極まる橋である。しかも、この御結界には光がない。ですから、ここを渡られる人が、その穴から落ちられたり。または、汚れ果てておる橋を渡って、かえって汚れたり。手すりがないてにそっから落ちられたり。とうとう神様の世界には行く事ができずしてです、いくようなことがあっては、相済みませんので。
 「どうぞ、この橋が汚れております。破れております。光がございません」どうぞ、いわゆるタイミングである。どうぞ、ね、落ち込まれないように、汚されないように、ね。例えば、探り探りでも、この橋を通ってもろうて、皆に助かってもらわなきゃならん為には、私が詫びるより他にはない。ね。
 私がせっかく取次者として、神様から、ね。言わば、そういうご使命を頂いておる。にも関わらず、私が真がない、親切がない。これでは人が助かりようもないのですけれども、ね。自分というものを見極める時、そう思うんですけれども。けれども、汚れておるところは、清まっていきたい。破れておるところは、修繕をしていきたい。光のないところには、私の心の光で、この橋を照らしたい。そういう願いは、やむにやまれん思いで持っておる。
 そこで、願うことと同時に、その事の詫びることが、私は、為されなければならん。そこに『詫びれば許してやりたいのが親心じゃ』と仰る親心が、そこに頂ける。
 私は、神は本体、わが本体の親ぞとこう仰るが、なるほど、天地の親神様は、わが本体の親でおありになりますと同時にです。私は、教祖の神様は、私ども信心の親である。いわゆる、教え親だと私は思う。ね。だから、その教え親に、私どもが付いて行くということ。真似でもしたい。ね。そういう私はあの、心がね、これは、取次ぎをさして頂く者の、受ける者の心の中に、しかもやむにやまれん思いでできてこなければ、金光様のご信心のおかげは受けられない。
 「これだけの事ができなければ」ということじゃない。受けられぬということじゃないけれども、そういう願いが心に立たなければ、ね。自分の真を、自分の親切というものを見てみてです、あまりお粗末な事に驚く。そこで、それがまあ、完璧な真とか、完璧な親切といったようなものを目指してです、一歩ずつでも近付こうという意欲というか、願いを持たなければならない。ね。
 なるほどそれならば、無学でも人が助けられるのであり、また、無学でも助かる事ができるのである。
 先生がお話しよると、まあ私のようなつまらん話でも、その、ある方達が話しておる。「どうもこの頃親先生のお話は、文高うなった」ちゅうた。難しなったというわけですね。文高うなった。いわゆる、もう分からん、と言うわけなんです。けれども、分からなくてもいいのである。
 私がこうやって一生懸命お話をしておるのですから、その、耳が聞こえなくても良いのである。私のその話しぶりを見とったらええ。私の実証をみなが、その、見とったらええ。何とはなしに有り難そうに話しござる。そら真剣に話しござる。「どうぞ助かってくれ」という親切を持って話しござる、といったようなものが感じられたら、それでおかげを受ける。ね。
 「ああ、金光様の信心のお話は難しか。二、三遍参ったばってん、難しいけんで」そら、難しかったって、問題は助かるということなんすから、それでもね、助かる。
 『学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる』此方。此方は無学であっても人が助かっておる。言うなら、此方は何にもできんのだけれども人が助かっておる。言うなら、此方の心は汚れ果てておるけれども人が助かっておる。ね。
 汚れ果ててる事を分かって、そこから清まろうと努める心。いや、そうならなければならんと一生懸命に精進しておる。清まっておらんけども人が助かっておるでしょうが。ね。
 けれども、これをこのままに置いておってです、ね。ただ、人にだけ清まれ。人にだけ改まれ。人にだけ分かれと言うておったんじゃ、やはり人は助からんのじゃないか、と私は思ですね。
 今日は、あの、教え親でおありになるところの、教祖様のご生誕の日であります。全国の信奉者の方達が、ね。今日は、そういう意味で有り難い日。教祖のご生誕、教祖がもしこの世に出現しておられなかったら、今日の私どもの信心はもちろん、私どもの幸せもない。ね。教祖様あって、私どもが今日あることを思うたら、その事をほんとに神様にお礼申し上げると同時に、ね。教祖様に、ほんとに喜んで頂けれる私どもであらなければならん。
 私、今日の生誕祭のことについてから、一番に神様にお願いさして頂いた。今日は、生誕祭のおかげ頂くと同時に。
 昨日久富先生が、今日の神饌をなさった。今日、五十日のお祭りですからね。「もう今日からしておこう」とこういう。ところが、お供えが揃っていない。ほんでまあ、お祭りの、いわゆる、祭事の方の受け持っておられる達に話したけれど、一刻はかどりもしないから、祭事部長をしておりあます文男先生に電話をかけられた。たらまあ、「大抵見繕って明日のお供え買うてきましょう」ということだったらしい。電話をかけられたら。
 それでも私は申しました。「先生お下がりでもいいから、あの、お供えしなさい」ね。「あの、ブドウ酒がたくさんあったじゃないですか。ブドウ酒を一台作りなさい」あの、何ちゅうかあの白い入浴液のごたっとは、あの、カルピス。「カルピスもたくさんあったから、カルピスを一台作りなさい」「お下がりでいいですか」ち。「良か」ち。ね。
 問題はね、私の美しい心を神様は、(みそなわ」?)したり、お受け下さるのだから、神様に見せびらかすだけじゃない、明日集まられるお年寄りの方達に、そのお下がりは全部、食べて頂いたり飲んで頂けれるものですから、(  ?  )の時の、あのお菓子がたくさんあるじゃないですか。今日もお供えがなかなら、それをお供えしなさい。他のお祭りならいかん。けれども、明日のお祭りはそれでいいよ。教祖様に喜んで頂けりゃいいのだから。ね。だからもう、欲もなければ得もない、お供えした物を全部、お年寄りの方達に、明日は頂いて頂こう、という美しい心でお供えをするなら良かよ。
 問題は物じゃないその、美しい心をお供えするんだから、「はあ、こげなもんば人に出すのがもったいなか」とか「おしか」とかっち、ようなものを付けずに。だから、その気持ちで今日は神饌しなさい、と言うてから、私、昨日申しましたことです。
 どんなに麗々しゅう素晴らしいお供えがきてもです、「こげなもんな、人に出すとが(   ?   )」そういうことで教祖様が喜びなさるはずがない。それよりも、お下がりでもかまわん。ね。それを年寄りの方達が喜ばれるなら、何でもかんでも「さあ召し上がって下さい。さあ飲んで下さい」と出せれるような、ね、そういう美しい心を添えてお供えするなら、その心を、言うなら、私の美しいその心を教祖様は受けて下さるんだ、喜んで下さるんだから、久富先生、それで良か良かって私が申しました。ね。
 だから今日また、参りもすりゃもちろん、御理解もいたしましょうけれども、でかったらそれでいい、と私が申しましたがです、私はそうだと私は信じております。
 問題は、教祖に今日は喜んで頂かなければならんというのがです、『年寄りを大切にせよ、年寄りを大切にせよ』と教祖様が仰っておられるから、ね。日頃年寄りを粗末にしておることはないけれども、特別取り分け、今日は優先的にお年寄りの方達を、ね。婦人会の方達がよりより集まって、お年寄りの方達の歯に合うように、んと例えば、(お膳?)のひとつもできる。ね。お神酒のひとつも上げさしてもろうて、そして、演芸の方の、今日は、浪花節が見れるそうです。ですから、その浪花節でも聞いてもろうて、ゆっくり今日はくつろいで頂こうというのも、これは、お年寄りが喜んで下さるからではなくて、教祖様が喜んで下さるからそうさしてもろうて、ね。
 けれどもまた、ご祭典ですから、そのご祭典そのものもまた、おかげを受けなきゃならんから、その事をまた神様に、今朝からお願いさして頂いておりましたら、★『六根清浄』と。筆、大きな筆で書いた字を見せて下さった。御心眼に。
 私はその『六根清浄』という意味が分からん。ね。ただおぼろげに分かる事は、これは、私どもが、ね。本気で清まることだとこういうふうに思う。だから、この『六根清浄』ということの本当の意味っていうことは、よく私は分からんけれども、ね。んなら、教祖様が喜んで下さる為のお祭りということはです、私どもが、私を中心として皆さんがです、ね。
 私どもが、ね、いよいよ清まらせて頂くごと願うその心が、いちだんと強まることを教祖様は求めてござあるのである。決してお魚でもなからなければ、お鏡餅でもない。お神酒でももちろんない。
 氏子が助かってくれる為にはです、やはり、氏子は、六根清浄である。ね。氏子が、いよいよ美しゅうならなければならない。限りなく美しゅうなろうとする心から生まれてくる親切。ね。その心から生まれてくるところの真。ね。それが神様のお喜びであり、教祖様のお喜びである。ね。
 もちろんそういう心で、なら、にぎにぎしくお祭りが仕えられるなら、またなおさら有り難いことである。お祭りはお粗末でもええ、言うなら、私が昨日から申します。「なかならお下がりでも良かよ」と。「そげんいっぺんお供えした物ばってんなんで」と思いますけれども、問題は、今度の今日のお祭りは、言うなら、言うならここの教会長である私の心と言うかね、私の美しい心を神様へお供えするんだからいいですよと。まあ申しましたようにです、ね。教祖様がお喜び下さることは、求めたものはそれなんだ。そこから進展してくるものはまた限りがない。
 その、言うなら、『六根清浄』いよいよ清まりに清まり、ね。改まりに改まり、磨きに磨いたその心で、ね。また、より神様がお喜び下さる御用がたくさんある。これはもう限りがない。ね。だから、根本になるものはそこなんだ。ね。
 この99節と。これは、取次者、取次ぎに携わらして頂く者に対する御理解であることは、「無学で人が助けられぬということはない」と仰っておられることで分かりますけれども、ね。私ども一人ひとりがです、人が助けられるくらいな信心を頂きたい。皆さんでもそうでしょう。皆さんの周囲には、「ほんとにあの人にも助かってもらいたい」という人がたくさんあるでしょうが。ね。
 お金はたくさん持ってござっても、心が貧しい。何かに恵まれてあるけれども体が弱い。ね。そういう人達には、まず心が豊かになってもらいたい。まず健康になって欲しい。そういう人達が周囲にあるでしょうが。ね。
 その人達にです、私は、親切を持ってお話をして差し上げるということが、私はおかげだ、とこう思う。だから、これは取次者だけじゃない。皆が取次者の心構えを頂いて行くことが信心だ、ということになります。ね。
 親切とは、「親が子を思う切なる心」とも言われます。親が子を思う切実心。ね。限りなく清まらして頂こうというところから生まれてくるところの心。それを私は、真だとこう思う。ね。それが人が助かるほどしの真。人が助かるほどしの親切。なるほど、無学でもこの親切がひとつあれば、真がひとつあれば、人が助かる。いや、もちろん自分も助かることはもちろんであります。ね。
 皆さん、今日のまたお祭りを拝まれることでございましょうけれども。ね。本気でひとつ、少しはましな清まり方をさしてもらって、ね。少しはましな美しい心で、今日の生誕祭をです、ね、いわゆる、教祖様にお礼を申し上げたいと思うのでございます。ね。そういう心が神様の願いである。親の願いである。ね。教え親の、それが願いである。
 その親様に喜んで頂くということは、決して、その親様の、ね、撫でたりさすったりしてあげる。ね。今日は敬老の日だから、年寄りの日だから、今日だけ肩いっちょ揉んでやりましょうと。足をさすってあげましょうと。ね。いう形のことではなくて、ね。ほんとに親が求めておるもの、ね。その求めておるものに、ね、それに全部応じられるということはできないにしましても、ね。少しでもそれに応じられる心の姿勢というものを、そちらへ向けての今日の生誕祭でありたいというふうに思うのでございます。どうぞ。


明渡 孝